島で暮らし始めた草壁港での3年間のこと
2010年2月16日。小豆島に来て新しい暮らしがここから始まった。
僕ら家族が最初に暮らした家は窓を開けると船の油の匂いがした。
このあたりに住む島の人々が高松に渡るときに使う高速艇の桟橋が右手にあった。
海面を滑るように走る高速艇の白とブルーの美しい船体は息子のあこがれ。
遊び相手がいない子どもが船に手を振る遊び。ときおり知らないおばさんが手を振り返してくれると興奮しながら報告に来てくれた。
新しく住んだ家は草壁港と言う港にあった。家から釣竿を伸ばせば届くくらいの距離。
春雷に浮かび上がる。左にブルーライン、右に高速艇。
島の環境に一番慣れていなかったのが都会生まれ都会育ちのうちのパグだったのかもしれない。パグの名前はテツ。
それでも息子にはテツがいたしテツには息子がいた。
家族3人と犬1匹での新しい島の暮らし。
東京にいた頃は、ほとんど一緒にいれなかった息子と最も濃密な時間を過ごせたのがこの港で暮らした3年間だったことに気付くのはそれからだいぶ経ってから。
僕は小豆島でオリーブ農家になるために3年間だけ時間をもらっていた。うまくいかなければ東京に帰るという妻との約束。
しかし、新しい畑もなかなか見つからず、なんかと借りた小さい畑での有機栽培も行き詰まっていた。
海ばかりみていた。
海がこんなに近くにあるのに大好きだった釣りもしなくなっていた。そんなことをしてる場合じゃないという焦り。
約束の2012年。オリーブ農家として何とか家族が食っていけそうな手ごたえ1つ。島での定住を決めて3年間の港暮らしを終える。
これが島で暮らし始めた草壁港での3年間のこと。
息子が手を振っていた高速艇は、3年前に運休となって再開の目処が立たないまま、今年の3月末にはフェリーも休止するらしい。たった3年間暮らしただけなのに草壁港が終わってしまうことはこんなに寂しい。人口が減り続ける島の港は沢山の人を見送ってきた。そして、見送ることもできなくなった。人が減り学校そして港がなくなっていく離島の現実。別に離島だけではなく日本中の地方は同じことが起こっている。珍しいことではなく、どちらかと言えば首都圏などの例外を除けば極めて普通のこと。
なくなっていくものもあれば、新しく生まれるものもある。感傷に浸るのはこれくらいにして新しいことに目を向ける。僕は人口が増え続けていた頃の日本に生まれて教室が足りないのでプレハブで授業を受けていた世代。岡山で採用されて直島配属を希望するも会社の命令で東京に赴任して満員電車に揺られていた。どこに行っても人だらけ。学生の頃に憧れていた国は人間より羊が多いというニュージーランド。東京での超過密生活を捨てて島にやってきたのだから人が少ないことは何よりも贅沢なのだ。もし人がまばらでゆったりと暮らせて、しかも不便じゃなければここでの暮らしは住めば都ではなく住めば天国。そういうことになる。
ゆったりしながら不便を楽しむ田舎暮らしではなく、ゆったりしながら便利な生活、そういうのそろそろできるはず。
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