ついでに教育の話し
水仙の花が咲き始める。
四季を通してオリーブ畑に咲く花の中でも水仙は特別美しい。
地中海が原産の水仙はユーラシア大陸を経由して東回りに日本にやってきて、オリーブはアメリカ大陸を経由にして西回りにこの日本の離島にやってきた。地球は丸いし、植物は海を軽々と越える。
マルコポーロやコロンブス、バスコダガマ。旅をするのは人間だけではない。
剪定をしていると春一番がときおり水仙の淡い香りを運んでくる。ゆったりと流れる冬の剪定仕事こそオリーブ農家の至福の時間。こんなに充実感がある仕事なのに、なぜか人気がない。
そもそも寒風の中ひとり単純な農作業は誰も面白いと思わないのか。
ふと思い出す。僕は小学校の通信簿の右側の性格的な評価で協調性が6年間ずっとCだった。先生が変わっても毎年ずっとC。確かあの右側は成績と違って特に目立った傾向がなければ何も記されていなたっかと思う。先生だってAを付けるのならまだしもCを付けるのは心苦しい気もするがそれでもきっぱり全員Cを付けたということは、ゆるがなくこの子の将来を心配してC、協調性に問題ありと付けたのだろう。
それから協調性Cのまま中学生、高校生、大学生、社会人になっていったが、先生の言うようにやはり協調性の欠落は色々と面倒なことを引き起こしてきた。でも50歳を過ぎて最近、少しずつ分かってきたことがある。
その人の短所は長所より本質的な強みになる。
僕は協調性が欠落しているので皆で力を合わせて何かを成し遂げることはできないけど、誰もいないところで一人でずっと何かをしていていられる。たぶん僕以外のひとはそういう風にはできないのだ。これだけが人とは少し違う自分の強みなのかもしれない。
別に負け惜しみとかでなく、その人特有の偏りは、強みであっても弱みであっても使いようによっては役に立つ。
「友だちと仲良くできない」は学校や会社においては決定的な弱み、短所だけど、ひとりでずっとやってられるという強みに転じる居場所もある。そういう努力では変えられない生まれ持った人とは違う何かを生かす仕事や役割を得ることができるかどうか、そういうのが教育の本質ではないのか。
強みを伸ばすことばかり言われるが、弱みに見えるものを逆手にとって強みに変える生き方がある。
進研ゼミの会社で20年間働いてずっと感じていた教育に対する違和感の正体を2021年の春一番が吹いた畑で思う。部活を楽しみながら毎日30分進研ゼミをするだけで大丈夫なのは中間テストの成績が少し上がるくらいであって、長い人生ではどうでもいい。
そういえば2007年の冬、新しい事業を始めるために訪れたオランダの小学校で、子どもたちが数日前にニュースになったフセイン元大統領の処刑についてその賛否を自由に発言していた。教室の窓際から眺めているだけで何一つ介入しようとしない手持ち無沙汰の先生。イエナプランのその授業を観てこれこそ日本に必要な「生きる力」を育む教育だと確信したのだが、同年、ゆとり教育は失敗とされ脱ゆとりに舵を切る流れの中でイエナは行き場をなくしてしまい僕も新しい居場所を探すようになる。
通信簿の左側の成績はパーフェクト、右側にはAもCもなく、学級委員だった古い教育で優秀だった子どもが、僕のいた会社には沢山いた。我慢すること、覚えること、仲良くできること、毎日会社へ行くことが得意な大人の集団から離れたからこそ分かることもある。
「その人の短所は長所より本質的な強みになる。」考えたことがありませんでした。
弱みに向き合うのは辛抱がいりそうですが、
自分で自分の弱みを責めるばかりではなく、自身の幸せのためにも、積極的に認められるといいなと感じました。
ハッとする言葉でした。
「優れていること→長所、劣っていること→短所」というのはある特定の社会や時代の中で決まっていますが、本質的には良い悪いではなくて人と少し違う特徴があってそれをどう使おうかという知恵がこれからはもっと求めれれていくのではないかと思っています。例えば、飽きっぽいは短所ですが新しもの好き。協調性が乏しいは短所ですが一人でも大丈夫というのは案外強みのような感じです。