ぎっくり腰と地方に住む不便さのこと
ここ小豆島で土に触れる生活をしていると、理屈ではなく肌感覚でわかってくることがあります。
先日、不覚にもぎっくり腰をやってしまい、一週間ほど身動きが取れませんでした。
何より骨身に沁みたのは、「車を運転できない」ことの絶望的な不便さ。
ハンドルを握れないだけで、畑はもちろん、病院へ行くのも、日々の買い物すらままならない。
島の暮らしがいかに「車を運転すること」の上に成り立っているか、否応なしに思い知らされました。
そのときに、もし1つだけ願いが叶うなら軽トラに自動運転が付いていればなあ!でした。
バカみたいですか?激しい畑仕事はできなくても自動運転車さえあれば、やれることは沢山ある。
本当に車が運転できないだけで田舎では何もできなくなる。
ちなみに、随分昔、東京でサラリーマンをやっていた頃にもぎっくり腰をやったことはありました。
でも1日半会社を休んで病院へ行き、電車で会社に行き、よろよろしながらですが、パソコンの前に座って仕事をしている風にはできました。
実際、元気なときの半分くらいは仕事もしていたと思います。
都会の方には想像しづらいかもしれませんが、ここでは車は単なる道具ではなく、生活を支える「足」そのものです。
近所の人生の先輩方が、今一番恐れているのは免許の返納。
運転ができなくなった途端、自立した生活が立ち行かなくなり、住み慣れた家を離れざるを得なくなる。
今回の私の寝込みなど比ではない、切実な問題です。
また、かつてあった地域の寄合や飲み会も、飲酒運転の厳罰化とともに姿を消しました。
安全のためには必要なことですが、結果として「人が集まる場」が失われ、地域の結びつきまでもが痩せ細ってしまいました。
もしここで、完全自動運転が実現したらと想像します。
怪我をしても、高齢になっても、ギリギリのところで移動の自由が保たれます。
仕事に行き、誰かと酒を酌み交わして安全に帰宅できる。
それだけで、地方の経済も人の心も、驚くほど活気づくと思うのですが。
地方再生とかなんとか言って細々とした補助金をばら撒くのではなく、その予算をすべて自動運転の技術開発に注ぎ込めないものかと。
東京に集中する富を、地方の未来の「足」を作るために還流させる。
日本人全員、都会のタワマンで暮らしている未来より、田舎にほどよく散在している未来の方が気分いいと思うのだけど、どんなもんですかね。
便利な田舎に暮らしたいというのは贅沢なんだろうか。
文:山田典章
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